NAO
Nao Kaneko
ゆったり子育てサロン Cocomotto代表
はじめまして
主催のNAOと申します。名前の漢字を「菜緒」と書くのですが、「野菜と一緒に大きくなりますように」という意味を持ちます。その名の通り、北海道の自然に囲まれて生まれ育ち、元農家の祖父母が自宅で作ったきゅうりをその場で洗い、お味噌をつけていただくのが大好きでした。大学卒業と同時に上京し、保育園や航空会社での勤務を経て、現在は子育て奮闘中の一歳児の母として、子育てサロンを主催しております。
プロフィール
- 名前:金子 菜緒
- 出身地:北海道
- 現在の住まい:東京都
- 家族構成やペット:夫と1歳児の息子との3人暮らし
- 趣味や好きなこと:スキー、水泳、キャラクターカフェ巡り、ドラマやアニメを一気に観ること、お絵描き、画用紙製作、季節のお料理作り
- 現在に至るまでの仕事の経歴:認可保育園の保育士、インターナショナルスクールの保育士、ショッピングモールの受付、航空会社の客室乗務員、日本料亭の仲居
これまでの歩みと、
Cocomottoへの想い
恥ずかしがり屋さんが一歩踏み出したきっかけ
1995年11月21日、北海道の札幌と旭川の中間に位置する、岩見沢というところに生まれました。父母と祖父母の5人暮らし。一人っ子で、家族からの愛情を一身に受けており、まさに箱入り娘でした。
性格は、少しだけ恥ずかしがり屋で引っ込み思案。「私はこう思う」とか「こうしたい」とか、小さなことでも思ったことをはっきり言い出せず、言葉を飲み込んで、もどかしい思いをした記憶もあります。ポケモンを見て、「何で自分は何もしないで戦わせているの?ピカチュウが可哀想」と言っていたくらい、争いごとも苦手でした。
幼少期は、シュタイナー教育が取り入れられている少人数の保育園に通っていました。おままごとやお絵描きをしたり、みんなでポップコーンを作ったり、羊の毛を紡いだり、かなり遠くまでお散歩に行ったり。今でも思い出すと温かい気持ちになるくらい、毎日楽しかった記憶があります。園長先生が淹れてくれたカモミールティーと、こっそり食べた庭のラズベリーが想い出の味です。
実家の目の前には、大きな公園があります。小学校に上がると、そこで毎日夕方まで友人とバレーをしたり、テニスをしたり、走り回ってたくさん遊び、のびのびと自由に過ごしました。年に一回、その公園に大きな櫓が立ち、町内の子ども盆踊りが開催されます。
櫓の上に立って太鼓を叩きながらキラキラ輝くお兄さんお姉さんを見て、「太鼓の人になりたい」と呟いた一言から、その夢を叶え、小学校1年生から高校3年生までの12年間、太鼓を叩き続けました。ご近所さんとのつながりも深く、とても可愛がっていただいて、今考えると、本当にたくさんの人から見守られ、大切に丁寧に育てられていたと思います。
また、岩見沢は近年、冬になると全国ニュースに顔を出すくらいの大雪が降るのですが、近所にもスキー場が2か所あります。父がよく連れて行ってくれたので、スキーは結構得意です。
余談ですが、小学校2年生の冬、夕方、ナイタースキー教室に行く準備をしながら、ドラマ「やまとなでしこ」の再放送を観るのが日課でした。その時に、主演の松嶋菜々子さんと堤真一さんに一目惚れ。ずっとおふたりが憧れのまま約20年、26歳の私は、結婚式のオープニングにはMISIAさんのEverythingを選び、母がプレゼントしてくれたエマリーエのリボンボンネを着用しました(笑)
話は戻りますが、スキーについて聞くと、さすが道産子、雪には強いのねと思われるかもしれませんが、山だけでなく海にも強くなるようにと、水泳も習わせてもらっていたので、泳ぐのも得意です。ですが、周りに海のない土地で過ごしてきたので、南国の沖縄に憧れがあります(笑)
小学5年生の時、人生初のターニングポイントが訪れ、内気な性格に大きな変化がありました。きっかけは、札幌で開催されていたイングリッシュキャンプ。当時英語を習っていたのですが、自信があるという程でもなく、ポスターを手に、「ここへ行ったら何か変わりそう」「でも怖い」を何往復もしながら、両親にお願いしようかすごく迷いました。
締め切り前夜に、ついに見かねた母からの後押しがあり、申し込みを決めました。キャンプでは、北海道大学の留学生や、同学年の子ども達と2泊3日を過ごしました。初めて3日間も家族と離れ、All Englishの世界に飛び込み、戸惑いばかりでした。簡単な挨拶でさえ緊張し、話している英語が正しいか不安でいっぱい。頼みの綱は、知っている英単語と身振り手振りのみ。
1日目はもう必死で、「隠れたい!早く帰りたい!」でした。2日目はグループに分かれて、自分の夢について話し合いました。私は絵を描くことが大好きだったので「漫画家かデザイナー」。背が高いことがすごくコンプレックスだったので(166cmですが、当時からほぼ変わっていません…!)「身長が活かせるモデルかCAもいいな」と言っていました。自分の夢の職業のイラストを切って貼って発表。ドキドキしましたが、2個年下の帰国子女の女の子に助けられ、何とか伝わりました。
問題はその後でした。はっきりと思い出せないのですが、何故かみんなで劇をやることになり、気が付くと、またまた何故か私は金髪のカツラを被っていました!!!すごく恥ずかしかったけど、みんな笑ってくれて、そのChallengeを褒めてくれて、盛り上がって楽しくて、達成感すらありました!
目立つことが好きではない私にとって、これまでの人生では考えられない出来事でした(笑)一日中一緒に遊び、打ち解け、その日はグループの子ども達で、夜中までおしゃべりしました。
そして3日目。最後は参加者全員の前で、感想をスピーチしました。ここで私は、「Fun」と「Funny」を間違えます。何となく、ニュアンスの違いは分かっていて、単純に間違えたと思いました。ですが、不思議と恥ずかしくはありませんでした。
「間違えたっていい」「自分の気持ちは伝えていいし、意見を言い合うことも楽しめばいい」と気が付けたことは、大きな学びでした。数日の出来事でしたが、休み明け、担任の先生やクラスメイトから、「変わった!」「すごく明るくなった!」と驚かれたことを覚えています。
いつも心の中にある言葉
このキャンプをきっかけに異文化交流に興味を持ち、中学卒業後は、再度母の後押しを受けながら、思い切って、片道2時間かかる札幌の高校の国際文化科に入学しました。自分を持っていて行動力があるクラスメイトが全道各地から集まっており、社会人になっても刺激を貰っています。
高校1年生の時、学校の語学研修プログラムに参加し、初めて日本を離れ、2週間ほどカナダのバンクーバーへ行きました。そこでの2つの想い出が、今でも心に残り、いつも私を動かしてくれています。
1つ目は、ボランティアで行った老人ホームでの出来事。そこで暮らす方々に、折り紙を折る等の日本文化を伝えていたのですが、あるおばあちゃんが真っ直ぐに私の目を見て、手を握り、『Enjoy your life.』と何度も何度も繰り返し言いました。
生まれ育った世代も、国も、言葉も違う、見ず知らずの私に、短く分かりやすい言葉で伝えてくれた思いが、ずっと頭から離れません。「人生って、きっとそれが全てなんだろうな。おばあちゃん、教えてくれてありがとう。Enjoy my life!」と、その時から思い続けてます。
2つ目は、ホームステイ先での出来事。夜中、なかなか寝付けず、日本を離れて少し寂しくなってきた私を、ホストマザーが外に連れ出してくれ、家の周りで犬のお散歩をしました。そこで、ふと空を見上げると、夜空に星がたくさん輝いていて、中でも3つ並んだ星に目が留まりました。
当時(も今もですが…)の私には、星空の中から唯一見つけられる星座があり、それがこの『オリオン座』です。「空って、本当に繋がっていたんだ!」と、当たり前のことですが、改めて気付かされて、涙が出るほど感動しました。
そして、「繋がっているなら、大丈夫。」と、それ以降は、思う存分、語学研修を満喫しました(笑)東京ではなかなか見られませんが、夜空にオリオン座を見つける度に嬉しくなり、空は繋がっていて、自分は一人でもなくて、大抵のことは乗り越えられるのだということを思い出します。
そして、時は流れ、高校2年生。異文化理解の授業で、海外孤児がトピックに上がりました。親を亡くした子ども達の記事を読み、クラスメイトとディスカッションをしながら、「近所のおじいちゃんおばあちゃんも家族のようだけど、血縁関係がないと本当の家族にはなれないのだろうか?」と考え始め、「世界中の子ども達が笑顔で幸せに育ってほしい」「いつか孤児院の設営に携わりたい」と思うようになりました。
保育の世界へ
この思いから、大学は同じ札幌の保育学科を選択し、ゼミでは児童養護を研究しました。アルバイトで貯めたお金でベトナムの孤児院へボランティアにも行き、卒業論文『日本とベトナムにおける孤児院でのボランティア活動の比較』のためのフィールドワークも行いました。
しかし、これまでの人生で、あまり乳幼児との関わりがなかった私は、大学4年間を通して、実習やボランティアでお子さまと関わる度に、言葉選びや遊び方のセンスのなさを痛感していました。
周りの学友のように、卒業生が連れてきた赤ちゃんを上手に可愛がることも出来ず、「私に保育は向いてない」「保育学科自体合っていないのではないか」とも考えました。次第に学ぶ楽しさを見出せなくなり、何もかもが上手くいかず、大学を辞めようか悩んだ時期もありました。
ですが、ある教授の「子どものことを俯瞰で見られるあなたのような人も、何かあれば適切に叱ることが出来るし、保育には必要だと思うよ」という一言で、子どもに関わる職業を選択肢の一つとして視野に入れ始めることができました。
そして、その後の幼稚園実習で、一週間の間にも大きく変化するお子さまの成長がとても面白いと感じたことが、大学卒業後、地元を離れて東京の認可保育園へ就職し、保育士の道へ進むきっかけとなります。
保育士時代、職員の方々には恵まれて働いていましたが、ここでも、全てが上手くいったわけではありませんでした。「お子さまの成長を理解していない」とご指摘を受けたことで、自分なりに乳幼児の成長発達を図にまとめ、大学時代の教科書と格闘しながら勉強し直した日もあります。
お子さまの発達に合わせた個別の目標も一から見直し、日々の関わりや遊び、保育室の環境を工夫するようにもしました。学生時代から保育のセンスのなさを感じていた私にとって、保育士の仕事はやはり難しく、優秀な周囲といつも比べて反省ばかりでした。
しかし、目の前のお子さまの笑顔を見ながら、保育士という職業は、今すぐに何か大きく変えることはできないし、お子さまもいつか私たちのことを思い出せなくなるけれど、楽しい記憶や小さな成長が重なって、日本の未来に繋がっていく尊い仕事だと感じておりました。
他業種を経験し、母となった今、お子さまに関わる仕事の大切さをより強く感じます。
初めての妊娠・出産は不安と恐怖でいっぱい
認可保育園を退職してから、約3年後。インターナショナルスクールの保育士やインフォメーションスタッフを経て、当時、航空会社に勤めていた私は、妊娠を機に乗務を降り、自宅で悪阻との戦いが始まりました。
妊娠・出産は初めての連続で、だんだん大きくなるおなかを見ながら、「自分の身体にあるどの穴よりも大きいこの子を外に出すには、切るか裂けるかしか選択肢ないの?」「出産の痛みが手指切断より大きいって、女性の身体の作り方、間違ってるよ…」と、恐怖しかありませんでした。
実際、LDRでは、激しい陣痛にこの世の終わりかと思いましたし、世界中の母親の強さを感じました。あの痛みを乗り越えて平然と暮らしているなんて、拍手じゃ足りません。
そして、生まれたての我が子を撫でながら、ふと頭をよぎる、「私って、動物だったんだな…」という感想。本当はもっと良いことを考えられたら良かったのですが(笑)
出産後は、すぐに眠れない日々が始まりました。夜中に泣き声で起き、眠たい目をこすって授乳をしながら、暗い窓の外の明るい光を見て、「もう消えていなくなりたい」と、涙が溢れたこともありました。その度に、実家から手伝いに来てくれた母が起きてきて、肩をさすってくれました。
同世代の友人が社会で変わらず過ごし、自由に動き回ってキャリアも積んでいる姿が輝いて見え、焦ったこともありました。「早く働かなくちゃ」「人生、止まっていたらダメだ」と、社会に置いていかれる恐怖心に駆り立てられ、早々に就職活動を開始するなど、自分の心と身体に鞭を打っていたなと思います。
我が子はというと、そんな私の横でものびのびと育ってくれて、5カ月でつかまり立ちをしてから、驚異のスピードで成長していきました。7カ月には一人で立ち、8カ月で歩き始め、どの育児本も全く参考になりませんでした。
心配性も相まって、20冊以上の育児本を横に積みながら、我が子だけに合わせた翌月分の成長予想表を自分で作成して、少しでも育児に見通しを立てようとしたこともあります。
遊びに出かけている時も、月齢の近い赤ちゃんが座って和やかに過ごす中、小さな身体でよろよろと歩く姿を追いかけて、怪我をしないか、周囲に迷惑をかけないか、いつも気が休まりませんでした。 保育士の経験があっても、初めての育児は驚きの連続で、知らないことだらけ。可愛い我が子と自宅で一緒に過ごしながら、いつも「ちゃんと育児できているのかな?」と、正解のない答えを求める日々でした。
そして、現在。たった半年のうちに、私は、運よく内定をいただいた会社(コロナ禍で挑戦できなかった国際線の客室乗務員のお仕事でした…)を辞退し、更に、ここで頑張りたいと入社を決めてお世話になった職場も退職してしまいました。
自分の未熟さや無力さ、家庭との両立の厳しさを痛いほど感じた期間でした。
どの時代も、多くの女性が母親として生きる上で感じてきたものかもしれません。
一方、我が子は、素敵な保育園に恵まれ、毎日走り回り、踊り、跳ねて遊んでいます。少しずつ言葉も出始めました。すると今度は、お友だちに怪我をさせないか、「イヤイヤ」にどう向き合うか等、新しい悩みが次々と出てきました。
可愛くて楽しい!けど、先の見えない不安もたくさん。
私は皆さまと同じ、毎日奮闘中の母親のひとりです。
どうして今、子育てサロン?
子どもの成長は、本当に一瞬です。保育士時代、毎日を一緒に過ごしたお子さま達は、もう小学校に通っています。
生まれて初めての保育園で、保護者さまと離れて大号泣していた日々のことも、小さなお口から「せんせい」が聞けた喜びも、忘れたことはありません。お子さまが保育園のことを思い出せなくても、私たち保育士はずっと覚えていて、遠くから幸せを願っています。
そして、子育てをしながらも、お子さま達との日々と我が子の成長を重ねて、やっぱり子どもの成長って面白いと改めて感じることが多々ありました。
保育士の経験から、愛おしい時間が過ぎ去る速さを前もって教わったからこそ、今、我が子との一瞬を大切にしたいと思えています。
きっと母親の悩みは、子どもの成長に合わせて新たな悩みに変化していき、時が経てば、今の悩みをすぐには思い出せなくなるでしょう。(おそらく、ここが、子育て環境が改善されにくく、保育の重要性が認知されづらい所以の一つだと思っています)
ですが、世界中のどこかで、大切な赤ちゃんに向き合いながら頑張るお母さまが、寂しさや苦しさを感じている『今』は、変わりありません。
「もしかしたら、少し前の私と同じようなお気持ちのお母さまがいるのでは?」「誰とも会えずに、誰にも頼れずに、一人で悩んでいる方もいるのでは?」私が今の痛みを忘れないうちに、これからを頑張るお母さまのために、何かできることはないかと考えるようになりました。
「直接会って、支えたい」「出産・育児を頑張る仲間と出会い、一緒にゆったり過ごす時間を作りたい」心に浮かんできたこの思いが、私が『ゆったり子育てサロンCocomotto』を立ち上げようと思ったきっかけです。
『Cocomotto』では、遊んで過ごすだけでなく、様々な「もっと!」にお応えできる場を、皆さまと一緒に作り上げていきたいと思っております。
例えば、ちょっとした「ここ、もっと知りたい」があれば、同じ気持ちの仲間と話し合う・専門家に直接伺う機会を設けたり、「ここ、もっと伸ばしたい」があれば、お子さまに合わせて楽しく伸ばしていけるような遊びをご用意したり。これは、0歳児育児中、どの育児本も全く参考にならず、不安だらけだった私が求めていた場です。
その中で、私にできることは、お母さまとお話しし、お子さまの成長や関わり方のポイントを整理しながら、子育てに見通しを持てるよう、一緒に考えていくことです。
ただでさえ無我夢中で寝不足のお母さまが、私のように徹夜でお子さまの成長予想表を作る必要はございません(笑)。場合によっては、その分野の専門家のお力をお借りしながら、一緒に今のお悩みを解決いたします。
また、私は東京出身ではなく、気軽に相談できる知人が周りにおりませんでした。産後、退院時には、放り出された感覚になったことを覚えています。特に東京には、同じような方も多いのではないでしょうか。
今を頑張るお母さまの「そんなことあった」「こうやって乗り越えた」をという実際のお声を伺い、これからを頑張るお母さまに繋げていくことも、大切な役割の一つと考えております。
『Cocomotto』は、「たくさんの方のCoco(ハワイ語で人との繋がりを表します)が、もっと広がっていくように」という思いを込めて名付けました。いつの時代にも、お母さまが「一人じゃない」と感じられるような社会にしていくことが、私の願いです。
『Cocomotto』を通して、お母さま、お子さま、ご家族の皆さまが、少しでも笑顔になり、笑顔が繋がり、広がっていくと嬉しいです。
誰もが肩身の狭い思いをせずに、ゆったりとした気持ちでお子さまと関わり、出産・育児の仲間が気軽に交流し、くつろげる空間を目指してまいります。
皆さまとお会いできますこと、楽しみにしております♪